2012年01月28日

アルバテル 或いは古代人の魔術 大いなる叡智の研究

箴言
偽りの道を歩む者は秘密を明かす。
しかし信仰深き者はそれを隠す。

アルバテル魔術或いは神の人としての賢者たる古代人の叡智にして異邦人の魔術、
神の栄光と人類への愛を例証せんとす。

あらゆる悪の魔術師ども、また神の賜物を蔑する輩の妨害を打ち破り、闇より出でて光の中に遂に登場したる書物。神の創りしものを真に敬虔なる心にて愛で、感謝の念を持って使用し、神の栄誉を称え、自身と隣人に益をもたらすべし。

可視、不可視を問わず万物を創造せられたる主の御名によりて、また求め訴えたる者に宝物庫を開いて神秘を明かされる主の御名によりて。
また惜しみなく秘密を我らに賜る慈父の如き主の御名によりて。神のひとり子我らの主イエス・キリストを通じて、我らに恩寵と啓示の霊を与えたまえ。されば我らはこのアルバテルの書を記し、人の身にその行使を許されたる最大の秘密を解き明かさん。

七格言 第一集

第一の格言秘密を知る者は誰であれ秘密の守り方を学ばせよ。そして明かすべき秘密の明かし方を学ばせよ。さらに封印すべき事柄の封印の仕方を学ばせよ。そして聖なるものを犬に与えぬよう、豚に真珠を与えぬよう学ばせよ。この法を遵守すべし。されば汝の理解の眼は開かれよう。されば汝は秘密の事物をを理解し、汝が望む事柄は神秘のうちに汝に明かされるであろう。天使と神の霊が汝にかしづき、汝の命を待つようになるであろう。まさに望外というべきである。

第二の格言
あらゆる物事に主の御名を唱えるべし。また神のひとり子を通して神に祈ることなしには、何事も引き受けるべからず。汝に召使として与えられし霊たちを用いるに際しては、これを神の使いとして手荒く扱うことなかれ。霊の主には相応の敬意を払うべし。されば汝の残りの人生において、安息のうちに身を慎みつつ、主の栄光と汝と汝の隣人の利益を達成できるであろう。

第三の格言
ひとりにて生きよ。詩人たちを伴侶とせよ。大衆との交流を避けよ。時間を惜しめ、あらゆる人にとって益となる存在たれ。天の賜物を用いよ、転職を心がけよ。神の言葉が決して汝を去らぬようにせよ。

第四の格言
よき忠告には従うべし。何事も先延ばしにすることなかれ。言動言行において常に誠実謹厳たれ。神の言葉によって誘惑に抗すべし。世俗を避けよ。天上なるものを求めよ。自らの知恵を信頼することなく、万事において神を仰ぐべし。聖書にもこう書かれたり。「なにをすべきかわからなくなったときは、おお神よ、私たちは眼をあげ、あなたの助けを求めます。」フィロの格言に曰く、すべての避難所が我らを見捨てるときにも、神の助けの手が差し伸べられよう。

第五の格言
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なる汝の神を愛せよ。また自分を愛するように、汝の隣人を愛せよ。されば神は汝を目に入れても痛くないほどに可愛がって下さるであろう。主は汝をあらゆる邪悪から守り、あらゆる善をふんだんに下さるであろう。かくの如くなれば汝の魂はもはや何も望むところがなくなるであろう。すべては汝の肉体と魂の救済にかかっている。

第六の格言
何を学ぼうとも頻繁に復習し、しっかり心に刻み込むべし。学習には時間を費やさねばならぬが、数多くを学んではならない。人間の精神は多くを同時に学習するように出来ていない。それが出来るのは神によって再生された者だけである。そのような者にとっては、同時に達成出来ないほど難しいという物事は存在しない。

第七の格言
悩みの日に私を呼べ、私はあなたを助け、あなたは私を崇めるであろう、と主は言われる。すべての無知は精神の困苦である。ゆえに無知なるときは主を呼ぶべし。汝の声は聞き届けられるであろう。そして神を崇めることを忘れるなかれ。詩篇に曰く「主よ栄光を我らにではなく、ただ、御名にのみ帰して下さい。」


七格言 第二集

第八の格言
聖書にも記されたる通り、神は物や人に名前を割り当てられた。また御自らの宝物庫よりある種の力と効能を取り出し、様々な名前に分配された。ゆえに星の記号と名前はその形と発音によって力を持つにあらず、神がさだめられた効能と職能により力を持つのである。天上、地上、地獄の三界にあって神に由来しない力は無いからである。そして神の許しなくしては、記号も名前を一切の力を発動出来ないことを知れ。

第九の格言
神より出ずるものこそ第一等の叡智なり。次なる叡智は霊として造られたるもののそれなり。さらに肉として造られたるものの智恵、第四に自然と自然の中の知がある。さらに教えに背いて最後の審判を待つ身となった霊たちのそれがある。第六に地獄において懲罰係の職につく神の僕のそれ。第七に小人族が最底辺を占めるにあらず、元素や元素の中に住まう者たちがある。されば創造主と被造物の叡智の差異を心得よ。すべての叡智は我らの前に姿を現すがゆえに、その真の使い道を心得ることこそ肝要なり。すべての被造物はなんらかの形にて人間の益になるよう定められており、それはあらゆる聖典、理屈、経験が証明する通りである。

第十の格言
全能の父なる神、天と地の創造者、可視と不可視なるもの万物の創造者たる主は聖書にて我らを後見して下さると述べられたり。子供を愛する慈父の如く、我らにとって何が益か、何が益ならざるか教えたもう。我らが何を避くべきか、何を大切にすべきかを教えたもう。現世来世の利益を約し、また懲罰を加えると脅すことにより、我らを服従へと誘い、不利益から逃れさせたもう。ゆえに日夜聖典をひもとき、今現在に満足し、未来永劫祝福せられたるべし。聖典の教えをなすべし。されば汝は生きるであろう。

第十一の格言
四なる数字はピタゴラスにして四数の最初なり。さればここにこそ、聖典にて明かされたる神の叡智に次ぐすべての叡智の基盤を置き、しかるのちに自然の中にある配慮へと向かうべし。
さればすべてを神に委ねし者に、すべての被造物が望むと望まざるに関わらず奉仕し、服従する叡智を授けよ。さればここに神の偏在が光を放つであろう。さらばここに我らは進んで奉仕する被造物とそれを望まざるものを見分けるであろう。あらゆる被造物の叡智と職能を役立てる法を学ぶであろう。この術は伝えられるものにあらず、明かされるものなり。神が秘密を明かされる人あり。
ゆえに我らは***を心より望むにあたり頼るべきは神のみである。神は我らに慈悲深く分け与えるであろう。我らに息子を下さり、聖霊のために祈れとお命じになったのである。可視、不可視の被造物すべてを我らの眷属とされたとして何の不思議があろうか。汝が求めるものは与えられるであろう。神の賜物を悪用せぬよう気をつけよ。すべて自らの救済を念頭において行うべし。とりわけ汝の名前が天に記されていることに注意せよ。キリストも警告していた如く、霊たちが汝に従順であるか否かは些細なことである。

第十二の格言
使徒行伝において、百卒長コルネリオがペテロを呼びに来たとき、霊がペテロに語る。「ためらわずに下にゆけ。私が彼らをよこしたのである。」このようにしてすべての訓戒が神の御使いの肉声にて伝えられた。そのことはエジプト人の古記録にも現れる。その後、訓戒は人の意見が加わることで曲解され、劣化した。さらに悪霊が介入し、服従を知らぬ人の子らの間に不和の種をまいた。そのことは聖パウロやヘルメス・トリスメギストスからも明らかである。これらの技を復興するには神の聖なる霊たちの教えによるしかない。真の信仰は耳を傾けることにより来るからである。されど汝は真理を確信し、霊が語りかけて事の真偽を明らかにすることに疑念を抱かぬゆえ、神のみを信仰の礎とせよ。されば汝はパウロと同様、「私は頼るべき人を知る」と言えるであろう。(断る!)天の父の意向なくして一羽の孔雀も地に落ちないのである。一意専心、神のみを頼りとしているならば、汝がたばかられることなどありえようか、信仰薄き者よ。

第十三の格言
主は生きる。そして生きるものすべては主の中に生きる。そして主は真にYHVHなり。万物にありてあるものを与えるものなり。そして主は御言葉のみにて息子を通じ無より万物を生じさせたる。主はすべての星と全天をその名前で呼ぶ。されば主は万物の真の効用と力を、可視不可視のすべての被造物の序列と性質を知るものなり。神が主に被造物の名を明かされたゆえなり。されば主は神より力を受け、被造物の効能と隠された秘密を引き出す。(お前は神に相応しくない。いらね。)その力を発動させ、闇より光へと出でる。されば汝が目指すべきは(指図するな、外道。)霊の名前を得ることなり。それはすなわち霊の力と職能を知ることなり。また汝のまえに姿を現すよう神に命ぜられる仕組みを知ることなり。ラファエルですらトビアスのもとに送られ、父親を癒し、息子を危険から救い、妻を娶らせるのである。(お前たちに「だけ」都合の良い妻だろ?威張るなゴミ!)神の力であるミカエルは神の民を統治する。(そんな民はいない。この言葉で誰の妄言か大体想像がつく。卑しい。)神の使者ガブリエルはダニエル、マリア、洗礼者ヨハネの父ザカリアのもとに送られた。されば汝のもとに、汝の望むままに事物の性質を教授するものが与えられるであろう。神の寵臣を用いるにあたっては汝の創造主、救世主、聖別者、すなわち父、御子、御霊を畏れ、打ち震えよ。学びしことをいかにても漏らすべからず。召喚(←は?)に際しては慎重を極めるべし。真に必要でないものは望むべからず。(←じゃあ、ハッキリさせよう。悪魔の神からもらうものは無い。消えろ。)

第十四の格言
汝の魂は永遠に生きる。汝を創造せし神を通じて生きる。(←嬉しくもなんとも無いすわ。こんな生き地獄永遠に繰り返されても迷惑なだけ。お断り!)ゆえに汝の神、主に呼びかけ、主のみに仕えるべし。(←お前らが主とか語るな。迷惑。)汝、神より課せられたる、神と隣人のための目的(←小せぇ神だな?自分と隣人だけか?小物が神を語っているな。)を果たすことを望むならば、これをなすべし。(←お前のような小物の命令など聞かんわ。フリーメーソン内で威張ってろ。)神が汝に望むものは心がけなり。神の息子を称え(←引きずり下ろしたい一心なんだね。)息子の言葉を守る心なり。(←悪魔の子、ダニエルか?)汝が息子を称えるなら、それは天にまします父の意志を行うことなり。(いつから悪魔が天を仕切るようになった?虚言者め。)汝は隣人には人類としての責務を負うものなり。汝のもとに来る人すべてに息子を称ええさせよ。(←断る!・・・お前ら傲慢だよ。)これが法にして預言者なり。(←違うね。悪魔が法や預言者を語るなよ?何一生懸命偉ぶろうとしてんだ?捻じ曲げまくりのお前たちが語るには、神では無く「悪」こそが相応しいだろう。逸脱してんだよ。)現世のことにおいては、現世にて必要なすべてをもらえるよう父なる神に呼びかけよ。(←で、また麻里子に他の男のチンポを入れて返すんだろ?立派過ぎ!神様。)そして神より(←何度も言わせるな。お前は神じゃない。悪魔だ。)与えられたるものは霊あるいは物を問わず、これを用いて隣人を助けよ。(←また、アスタロトか?
うんこが神語るなよ。)

されば汝かくの如く祈るべし。

おお天地の主、(←言ってて恥ずかしくない?)可視不可視の万物の創造主よ。取るに足らぬ我々なれど、汝の助けを得て呼びかけん。汝のひとり子、主イエス・キリストを通じて呼びかけん。(←イエスも「お断り」だってさ。)我に汝の聖なる霊を与えたまえ。汝の真実のうちに我をすべての善に向かわしめたまえ。アーメン。我はこの生の術を知悉することを切に望むものなり。かの術は闇の中にて圧倒され、人の浅知恵にかぎりなく毒されたる。されば汝に教わらぬかぎり、我は自力にていかなる知識にも達することなし。我に汝の霊の一つを与えたまえ。(←持ってけ。)汝の栄光を称え、隣人の利益をもたらすべく、我が知ることを許されたる知識をもたらす霊を与えたまえ。(←今回は心です。)また我に学びの心を与えたまえ。されば我は汝の教えを容易に理解し、胸に秘め、尽きることない宝物庫より宝を取り出すが如く必要なものをもちいん。されば我に恩寵を賜らん。我は畏れ、打ち震えつつ、謙譲のもとに、主イエス・キリストと聖なる霊を通じて汝の賜物を用いん。アーメン。
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魔女狩り基本資料 ジェイムズ一世「悪魔学」序文 国王の魔女狩り本

英国国王ジェイムズ一世著『悪魔学』(1597)

読者へのまえがき


 昨今、わが国には恐るべき悪魔の奴隷たる魔女や魔法使いが溢れており、ゆえに余は急遽以下の拙論を世に送りだそうと決意した。無論、余の学識や知恵をひけらかすためではなく、ただ良心の命ずるところ、世人の疑念を氷解せしめんと欲するがゆえである。すなわちサタンの攻撃は明らかに行われておるのであり、その手先たる者どもは厳罰に処すしかない。しかるに昨今、二人の厭うべき者どもの見解が世に流布しておる。一人は英人スコットと申し、魔女の術などありはしないと公言してはばからず、ゆえに霊の存在を否定した古のサドカイ教徒の過ちを繰り返しておる。もう一人はワイエルと申すドイツの医者であり、魔女連中を公に弁護しておる。そうすることで魔女どもの悪行が横行するのであるから、この男は自ら連中の仲間であると告白しておるに等しい。

 さて、この論文を平易かつ読みやすくするべく、余は問答形式を採用し、さらにこれを三巻に分割した。第一巻は魔術全般、とりわけ死霊術を扱う。第二巻は妖術と魔女術を、第三巻は人を苦しめる霊や幽霊を扱い、さらに全体の結論を記す。余の意図するところは、二点の証明のみである。前出の如く、悪魔の業が過去も現在も実在すること、そして悪魔の一味どもが峻厳たる裁きと処罰に値することである。そして余は悪魔の術がなにをなしうるか、それがいかなる自然原因によるものかを類推する。余は悪魔の力のすべてを詳細に検討する気はない。それは無限といってよいほどだからである。スコラ派風に述べるならば、余は種ではなく類を論ずるのであり、それをもって種差を把握せんとする。たとえば、第一巻六章にて扱う魔術師の力がある。あらゆるご馳走など、かれらが突如として引き寄せるものはすべて使い魔が運んでくる。使い魔は盗賊であるから盗みに愉悦を覚えるのであり、また霊であるから突如として精妙化して物品を運ぶなど容易である。この類をもって種を理解するとなれば、かつて報告された葡萄酒を壁から取り出す件なども合点がゆくであろう。事の詳細は全般を論じれば十分に明らかになるのである。余は以上の如き論法により、魔女術を扱う第二巻五章において、魔女がその主人の力を借りて病を治したり広めたりすることを証明する。それはとりもなおさず魔女どもが、男女の交わりを阻害するといった個別の術だけでなく、悪魔の力によって病全般を支配する力を有することの証明となるのである。

 ところで読者にはとりわけお願いしておきたいことがある。余は悪魔の力を論じるが、それは目的も視野も異なる状況でのことである。第一原因としての神と、その道具にして第二原因としての悪魔という前提が、神の絞首人としての悪魔の作業のすべてに貫通していることをよく理解しておいてもらいたい。悪魔の意図が人の魂や肉体の破滅にある場合は、それが許可されているからである。一方神は、悪魔の邪悪を懲罰の鉄杖とすることで悪人に破滅を、患者に試練を、信仰深き者に更生をもたらし、絶えることなき栄光を引き出すのである。

 本論における余の意図をここまで宣言した以上、特定の儀式や不思議の技の詳細が割愛される理由は、賢明なる読者には容易に了解されるであろうし、第三巻一章の後半にも記してある。そういった事物に興味を持つ者はボダンの「悪魔狂論」を読まれるがよろしかろう。同書は勤勉に収集された事実を連ねており、昨今の憂慮すべき風潮である軽率な判断よりも重みがある。悪魔の力に関する古人の見解を知りたい読者は物故したドイツの作家ヒペリウスとヘミンギウスを当たられよ。その他にも、この主題を扱う現代の神学者は無数にいる。不要にして危険たる黒魔術の技のなんたるかを知りたいと欲する者は、コーネリウス・アグリッパの第四書や前出のワイエルを見るがよい。されば本論の真意が賢明なる読者に首尾よく伝わり、上記のあやまちに備える武具とならんことを祈念しつつ、この場の筆を置くものとする。


王 ジェイムズ






解説 : 国王の魔術書として有名な Demonologie (1597)
の序文である。見てのとおり、レジナルド・スコットやヨハン・ワイエルに対抗すべく記されたもので、本編ではフィロマンテスとエピステモンという2名が対話するという形式で悪魔と魔女の技を紹介し、批判していく。全体に真面目な論調であり、スコットの軽妙と実に対照的である。
 16世紀末の時点で使い魔
familiar spirit
という表現があり、ボダンが紹介されるなど、当時の魔術事情がうかがえる。さらにいえば、現在では偽書とされるアグリッパ第四書が注釈抜きで登場しており、魔術書出版がかなり盛況だったのではないかと思われる。

 なお、原文は改行なしの一段落であるが、あまりに読みづらいため適宜改行させていただいた。

posted by 真 救世主 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

魔女狩り基本資料 マレウス・マレフィカルム ご存知「鉄槌」。もうひとつの魔術書。

マレウス・マレフィカルム

Maleus
Maleficarum
as an Magical Text




















 悪魔自身ですらある種の術の発動に際して星の影響を受けるのであり、人間はいよいよ影響されるといえる。たとえばルナティックと称される人々は一定周期で悪魔に苦しめられるが、悪魔がわざわざそうしているのではない。むしろ悪魔は常時苦しめていたいはずなのだが、悪魔自身も月相の影響を深刻に受けているからである。また、死霊術師が悪魔召喚に際して一定の星位を遵守するのも、悪魔が星の支配下にあることを熟知したればこそである。

 さらなる論拠として付加するとすれば、聖アウグスティヌス(神の国10巻)の言葉がある。すなわち悪魔は薬草や岩石や動物といった物体、さらにはある種の音響や声や像を用いるとされる。しかし天体と物体では根本的な力が違うのであり、星が持つ影響力は地上の物質とは比較にならない。そして魔女はその行いに際しては物質の力を用いているのであり、悪霊の助けは得ていない。
Maleus Maleficarum Part I.
Question 5. (Eng. tr. Summers: London: Rodker, 1928)
 
 三人で道を歩いているとき、二人が雷に打たれた。残る一人が恐れおののいていると空中から声が聞こえてきた。「あいつも撃とう」。すると別の声が答えた。「それはできない。あの男は今日、”言は肉体となり”という言葉を聞いているから」。そこで男は悟った。自分が救われたのは、その朝ミサに参列してヨハネ伝の一節を耳にしていたからだと。

 また、身に付ける聖なる文言も、7種の使用規定を順守すれば、すばらしい防護効果がある。聖なる文言は防護効果のみならず、呪われた人間に対する治癒効果もある。
 場所や人畜を確実に防護する方法としては、われらの救世主の勝利の御名
IESUS + NAZARENUS + REX + IUDAEORUM +
を十字状に記して四隅に配置することである。これに処女マリアや福音聖人の御名、ヨハネ伝の言葉「言は肉体となり」を付加してもよい。
Maleus Maleficarum Part II
Question 1. (Eng. tr. Summers: London: Rodker, 1928)
 
 女が小枝を水に浸して空中に水滴を振りまき、雨を降らせようとする。もちろん女が雨を降らせることはできないし、それゆえに責められることはない。しかし女が悪魔と契約していて、契約によって雨を降らせるのであれば、雨を降らせるのは悪魔であり、女も告発の対象となる。女は不信心者であり、悪魔への奉仕に身を捧げているからである。

 魔女が蝋人形かなにかを呪詛目的で作成する。あるいは溶解した鉛を水に流し込んで誰かに似せた像を作る。そして像を刺したり傷つけたりするが、そうすることで想像力のなかで被害者を呪っているのである。
Maleus Maleficarum Part II
Question 1 Ch.ii. (Eng. tr. Summers: London: Rodker,
1928)







解説

 『マレウス・マレフィカルム』すなわち”魔女への鉄槌”は魔女狩りテキストの手本としてつとに有名であるが、この書が有する魔術書としての価値が論じられることは少ないようである。同書の目的は魔女を裁判にかけて有罪を宣告することにあり、その過程においてさまざまな定義を行う必要がある。すなわち「魔術とはなにか」「魔術の力の源はなにか」「魔術はいかなるメカニズムによって作用するか」、そういった問題を逐一解決せねばならず、定義に際しては過去の事例や解釈を紹介しなければならない。共同著者であるクラメル&シュプレンゲルは古今の聖賢を引用し、あるときは賛同し、あるときは反駁しながら筆を進めていく。そして出来上がったものは、当時の魔術思想の見事な要約となっていたのである。

posted by 真 救世主 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

魔女狩り基本資料 コンペンディウム・マレフィカルム 魔霊の出現 第1書第18章。霊の分類。

『コンペンディウム・マレフィカルム』第1書18章













魔霊の出現あるいはスペクターに関して

論拠

魔霊にも種類があり、かれらのあいだでは確固たる位階が存在することも覚えておく必要がある。第一位の魔霊は「炎霊」である。かれらは大気の上層部に棲み、最後の審判の日まで下層に降りてくることはない。したがってかれらは地上にて人間と交流することもないのである。

第二位は「空気霊」である。かれらはわれわれの周囲の空気のなかに棲んでいるからである。かれらは地獄へ降ることもできるし、より濃密な空気から作られる身体をまとうことで人間のまえに姿を現すこともできる。またかれらは神の許可のもと、大気をかき乱したり、嵐を呼ぶこともままある。かれらはみな人類を破滅させるべく共謀するのである。

第三位は「地霊」である。かれらが罪ゆえに天上から放逐されたのは間違いないところである。これら悪魔の一部は林や森に棲み、狩人たちを罠にかける。一部は平野に棲み、夜間旅行者を迷わせる。他のものは奥まった場所や洞窟に棲む。秘密裏に人間と暮らすことを好むものもいる。

第四位は「水霊」である。かれらは河川や湖沼の水中に棲むからである。かれらは怒り、憤りをかかえ、不安定で欺瞞に満ちている。海では嵐を起こし、船を沈め、生命を奪う。この魔霊は女性の姿で現れることが多い。湿ったところに棲み、より柔弱な生活を送るからである。しかしより乾燥し、かつ堅固な場所に棲むものは男性の姿をとることが多い。

第五位は「地下霊」である。かれらは山岳地帯の洞窟に棲むからである。この魔霊は最悪の性格であり、おもに鉱夫や宝探したちをいじめる。いつでもよろこんで人間に危害を加えようとする。かれらは地震と風と火事を起こし、家屋の基礎を揺らす。

第六位は「避光霊」と呼ばれる。かれらは光を嫌悪し、日中は決して現れず、また夜以外には身体をまとうこともないからである。この種の魔霊はまったく不可解であり、人知のおよばぬ性質を有する。内側はまったくの闇であり、氷の情熱を持つ。悪意があり、落ち着きがなく、機嫌が悪い。夜間に人間に出会うと、激しく攻撃してくる。神の許しがあれば息を吹きかけたり触ったりすることで人命を奪うこともある。トビアスの物語に登場するアスモデウスはこの種の魔霊であろう。かれらは魔女とは無関係である。呪文によってかれらを遠ざけておくこともできない。かれらは光を嫌い、また人間の声やあらゆる雑音を嫌うからである。

また魔霊がさまざまなかたちで出現することに注意せよ。犬、猫、山羊、牛、男、女、ミミズク等に化けるのだが、その擬態はすぐにわれわれの知るところとなる。なぜならば、全能の主によってかれらは鳩や子羊や羊に化けることを禁じられているからだ。真の子羊はよき羊飼いキリストであり、聖霊は鳩の形にて現れることが多いからである。またこれらの動物には欺瞞がなく、ゆえに無害であるから、神は魔霊にこれらのものに化けることをお許しにならない。しかし人間の形はあらゆる点でもっとも完璧にして美であるから、魔霊はわれらのまえに人の姿にて現れるのが普通である。マルルーリも書いているように、人間型はほぼあらゆる目的にかなうのである。


実例

ナンシー出身の運送業者が街外れの沼地の雑木林で木を切っていて、すさまじい嵐に襲われた。雨宿りしようと小屋のほうに急いだが、途中にあるこんもり茂った木の下で雨脚が収まるのを待つことにした。すると近くに木こりが立っていたので驚いた。相手の顔をよく確かめようとしたとき、男は不思議なものを見た。木こりの鼻が突然、棒の長さにまで突出し、すぐに通常の大きさに戻るのである。また木こりの足には蹄があった。また全身が不釣合いな大きさなのだ。運送業者はこれを見て恐怖のあまり死にそうになった。それから難事に遭遇したキリスト教徒らしく、十字を切ってみた。はっと気づくとだれもいなかった。かれはそのまま呆然としていた。かれは日頃、ナンシーまでなら目をつぶっても帰れると豪語していたのだが、このときばかりはいかに気合を入れても足が動かなかった。なんとか街にたどりついたとき、舌はもつれ、目はすわっており、全身の震えは収まっていなかった。そのためかれの説明は簡単に聞き入れられたのであった。少し離れた場所から眺めていた別の木こりの証言も手伝った。運送業者がいた場所はなにやら大気が濃密で、厚い雲に覆われていたかのようだったという。

 




the Fiery




the
Aerial






Terrestrial




the
Water




Subterranean





Lucifugous






   

 





解説

 いわゆるエレメンタル分類であり、とりわけ目新しい部分はないのだが、唯一「ルキフグ」が面白いトピックといえるだろう。とりあえず「避光霊」なる訳語を当てているが、これが適当であるとは訳者からして思ってはいない。いわゆる悪魔から妖精、精霊、妖怪の類までを elemental demon
の名のもとに分類し、それぞれに性質や活動範囲を設定するとなれば、これは魔女学者、悪魔学者の領分を越える思索ともいえるであろう。

 実例部分には他にも不思議な話が紹介されているが、冒頭のピノキオ的魔霊が秀逸である。

posted by 真 救世主 at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

魔女狩り基本資料 コンペンディウム・マレフィカルム 悪魔憑き 第3書第7章 豊後の憑き物。








フランシチェスコ・マリア・グァッゾ著

コンペンディウム・マレフィカルム 

第3書第7章 祈祷に関して


 1549年、とある男がイエズス会の神父に告白している。いわく真夜中に聴罪神父から命じられた告解を行っていると、突如として猫やネズミその他の大群に包囲されたという。色は真っ黒で、恐ろしげな様子であり、それが無数に出てきて寝室にあふれそうになった。生きたまま貪り喰われるのではないかと恐れおののいた男は、あわてて主の御像のもとに駆けつけ大声で助けを求めたのである。すると獣どもは家全体が崩れそうな叫び声をあげ、突如として消えたという。

 1555年、日本の豊後に100年ものあいだ悪霊に苦しめられている家があった。おかげでその羊飼いの家では邪悪が伝来の家法の如くなっており、一家のあるじは偶像をなだめたてまつることに財産を費やしたが、邪悪はおさまるどころがいよいよひどくなっていった。30歳になる息子は悪霊にとりつかれ、父母の顔もわからなくなり、15日ものあいだ食物を口にしなかった。とうとうイエズス会の神父がやってきて、息子に聖ミカエルの御名を唱えよと命じた。しかし聖なる名前を口にしたとたん、息子は激しく痙攣を起こし、手足をあらぬかたへ捻るので、周囲の人が怖気づくほどであった。とはいえ司祭が父と子と聖霊に祈りを捧げると、息子はただちに悪霊から解放された。数日後、今度は息子の妹が悪霊に苦しめられるようになった。そして苦悶のさなか、妹は司祭に対して、キリスト教徒になりたいと叫んだのである。そこで妹を聖水盤のところへ連れていき、十字を切って加護を与えようとすると、ぶるぶると激しく痙攣する。司祭は熱心に祈り、妹も必死でイエスと聖ミカエルの聖なる御名を唱えようとした。しかし悪霊はいよいよ妹を苦しめ、その口をぴたりと閉ざすのであった。しかし妹はついに口を開いてなにやら同じことを繰り返し叫んだ。いわく「日本の宗祖であるシャカとアミダを拒絶するなら、われわれには崇拝対象がなくなってしまう」。この種のことをさんざん叫んでいたが、だれにも理解できなかった。ある日、多数のキリスト教徒のまえで神父がミサを行った。問題の女性も同席していた。ミサを終えたとき、神父が彼女に気分はどうかと尋ねた。「とてもよい」と彼女は答えた。しかし聖ミカエルの御名を唱えるよう命じられると、彼女はぶるぶると震え、歯を剥き出しにして唸った。そして悪霊がしゃべった。自分は出たいのだが、なにせ彼女の家系を長年にわたって宿所としていたので、出ていくわけにもいかないという。そこで司祭が再び聖ミカエルの御名を唱えるよう命ずると、女性はとても心苦しい様子で、涙を流しながら訴えた。「わたしはどこに行けばよいのでしょう?」。そこで周囲のキリスト教徒たちが一斉に祈りを唱えた。そして祈りを唱えるうちに女性に取りついていた悪霊が去ったのである。女性はとにかく水を飲ませてくれと頼んだ。そしてイエスとマリアの御名を唱えるよう命じられたとき、あたかも天使の声のような美しさで御名を唱えたのであった。

 1588年、モラヴィアのブレンにとある病院があった。そこに悪霊にひどく苦しめられている女性がおり、ときに入水を図ったり、あるいは隠し持ったナイフで自決しようとしていた。どれも周囲の配慮でことなきを得たのである。かくの如くして3年ものあいだ患ったのち、彼女は卒中の発作を起こした。舌が妙な具合にもつれてしゃべることもできなくなった。やがて病院の人々のために祈ってほしいという要請がとある司祭のもとになされた。神は祈りを聞き届けた。まず彼女の舌がほどけ、つぎに魂もほどけた。彼女はよき懺悔を行い、秘蹟の赦しを得たからである。

 ルイス・フロイスの書簡(1596年)に次の話が掲載されている。
 府内近郊にかつて権勢を誇った名のある武士が住んでいた。その家の娘が異教徒に嫁いでおり、母親も兄弟もみな異教徒であった。キリスト教徒はその武士ひとりであった。かれはよき信仰の人であった。その娘が急病に倒れ、六日とたたずに危篤となった。悪霊のしわざとのうわさが流れた。身動きが半狂乱であり、とりおさえるのに大の男が二、三人必要だったからである。娘の夫と義父は坊主に助けを求めた。しかし坊主の空虚な儀式と迷信じみたもろもろはなんの役にも立たなかった。いよいよあの世が近いとなったとき、18マイル離れた場所に住む父親のもとに知らせが届いた。父親は必死で駆けつけ、なんとか間に合ったが、娘は意識もなく、父親の顔もわからなかった。そこで父親は寝所まわりの坊主と異教徒たちをさがらせ、自らロザリオを手に主の祈りを三回唱えてから、天使敬祷を開始した。しかし娘の容態は一向によくならず、それどころか痙攣がひどくなり、大人数ですら押さえられなくなった。父親はふたたびロザリオと唱えたのち、ロザリオで娘の背中を叩いてこう言った。「どうやらおまえは悪霊のようだ。この体から出て行け」。すると悪霊が答えた、「出てゆかぬわ」。父親は高徳の人であったから、娘の首にロザリオを掛けてこう言った、「おまえの意思などどうでもよい。出てゆけ」。すると悪霊が答えた、「ロザリオを外してくれ。首が裂けるから。外してくれたら出てゆく」。父親が答えた、「決して外しはしない」。そして縄をもってきて、これで鞭打つと脅した。悪霊は去り、娘を解放したのであった。

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コンペンディウム・マレフィカルム 奇術 第1書第2章 奇術師、逃走。

『コンペンディウム・マレフィカルム』第1書第2章






人為魔術に関して

 魔術には自然と人為の二種類がある。自然ないし正統魔術は、神がアダムに与え給うた賜物としての知識を用いるものであり、人が増えることにより後代にまで伝えられた。プセルスやプロクロスも指摘しているように、自然魔術とは自然の秘密に関する正しい知識でしかない。天上の星の運行と影響を観測し、あるいは物質間の共感と反発を知り、無知なる者には幻惑か奇跡に思える不思議な現象を生み出すのである。トビアスが魚の胆嚢を用いて父親の失明を癒したとき、ガレンその他がドラゴネットに見出す効能が用いられていたのである。狼の皮で作った太鼓の音は、羊の皮で作った太鼓を破裂させるであろう。この種の例は聖アウグスティヌスが言及している。孔雀の肉は腐敗しない。籾殻は雪を溶かさずに保存し、また熱を保つがゆえに果実を熟成させる。水につけると燃え上がる白墨は、しかし油では発火しない。ギルゲンティの塩は火で溶けるが水中では硬化し、うめき声をあげる等々。

 それとは別に人為魔術なるものがある。これは人間の小手先によって出現する不思議である。これにも二種類あり、数学と手品に分類される。数学魔術とは幾何、算術、天文の原理を利用する。例をあげるなら、シラキューソ包囲戦の際の、鏡による軍艦の焼き討ちがある。タレントゥムのアルキタスの空飛ぶ木鳩。レオヌス帝の黄金の歌う小鳥その他。これらはすべて自然の法則に逆らうものではなく、むしろ自然の法則を利用し、運動の方向と次元を正しく変換することが必要とされる。手品と称される魔術は欺瞞と錯覚を用いるもので、その効果は外見とはずいぶん異なる。コンジャラーや綱渡り芸人はわざとらしい呪文など唱えているが、実際の芸のもとは手足の敏捷性である。慎重に調教した野獣も同様の離れ業を行うことがある。あるいは隠れた第三者の手で人目を盗んで行われることもある。ベルの司祭たちはドラゴンが供物を食べたと主張するが、実際は違うのである。さて降神術や自然魔術はそれ自体善にして合法である。しかし非合法となる場合もある。第一に、邪悪な目的のために行われる場合。第二に、悪魔の助けを借りて行われたと勘違いされて大騒ぎになる場合。第三に、コンジャラーや観客に精神的ないし肉体的危険が及ぶ場合である。そして考慮しておくべきは、コンジャラーたちは奇術によるトリック10回のうち、1回は純粋に小手先のわざを披露する。そうすることで、かれらが行うことは純粋に技術と敏捷のなさるわざであり、幻惑でも妖術でもないと思い込ませるのだ。ウルリヒ・モリトールいわく、悪魔はあるものをべつのもののように見せることができる。そしてニダールいわく、コンジャラーたちはほかにも多くのトリックを使う。なにゆえならば、これらの奇術は洪水以前の巨人悪魔によって伝授されたものであり、それをハム族が学び、ハム族からエジプト人へ、それからカルデア、ペルシャと、連綿と伝えられたからである。聖クレメンスは『認識論』(第4巻)のなかで語っている。「ゾロアスターはカルデア人のなかの筆頭であり、その所業の当然の報いとして雷に撃たれた」。


実例

 コローニュのとある娘が貴族の前で魔法とおぼしき不思議を披露したという。ナプキンを引き裂き、皆の面前で一瞬のうちにつなぎあわせたといわれる。またガラスの器を壁に投げつけて砕き、一瞬で修繕するといったことをなした。この娘は異端審問によって破門されることを免れている。

 同じ情報筋によると、フランスにトロワ・エシェルと名乗るコンジャラーがおり、シャルル九世および公衆の面前にて以下の不思議を行った。トロワは離れた場所に立つ貴族のネックレスに魔法をかけ、ネックレスのリングがひとつひとつ自分の手のなかに飛んでくるようにしたという。問題のネックレスはその後無傷で発見された。この男は多数の人間業ないし自然現象では説明がつかない行為のため有罪とされ、すべては悪魔の仕業であったと自白している。もともとそうではないと執拗に否認していたのであるが。

 ヨハン・トリテミウスによれば、876年という早い時代、ルイ帝の御世に、ゼデキアスという名前のユダヤ人医師が諸侯をまえに不思議を見せたという。藁を満載した馬車を馬と御者ごと丸呑みする。人間を首も手足もばらばらに切断して血の滴る器に入れ、一瞬で無傷のまま再生させる。また真冬の宮廷に木々や草花を咲かせ、小鳥が飛び交ったという。

 ドミニコ会修道士トマス・ファゼーリは『シチリア島年代記』第2期第2巻(また第1期第3巻1章)においてディオドロス通名リオドロスなる人物がなした不思議を語っている。この男は魔術を授かったとの触れ込みのもと、カタニアにて驚異の奇術を行い繁盛していた。呪文の力で人間を動物に変えたり、あらゆるものの形を変えたり、また遠くにある物品を一瞬で引き寄せたりした。またカタニアの人々に罵詈雑言を浴びせることで自分を崇拝するよう仕向けたと公言していた。この男は死刑台に運ばれる際、呪文の力によって看守の手を逃れ、カタニアからビザンチウムまで空を飛び、すぐにカタニアに戻ってきたという。この魔法に驚いた人々は、ディオドロスになんらかの神の力が備わっていると思い込み、愚かしくもかれを崇拝するようになった。最終的にカタニアの司教レオニスが突如として神の力を授かり、衆人環視のなか街の真ん中で男を炉の中に放り込んだ。ディオドロスはそのまま焼けてしまった。かくして神の正義が勝ったのである。寛大な判事の手によって死を逃れても、聖なる人の手からは逃れえないからである。

 現代にあっても、マルタ人チェザーレなる者がパリ人によって捕らえられたが、巧妙に脱獄したという。そして公判中に異端審問官バジウスが告発した嫌疑のひとつがこれである。しかしかれは地獄落ちを恐れよと訓戒されており、また当時の知事は審問の際に教会判事の監督を必要としていたため、公判の最中に崩れ落ちてしまい、その場で多数の不思議を実演しはじめた。他の人に魔法のカードを持たせ、離れた場所から外観を数回変えてみせたり、テーブルの向こうに置いたガラスの容器を引き寄せたりした。テーブル上に大量の砂糖の粒をばらまき、まわりの人に心の中で一粒を選ばせ、しかるのちにどの粒を選んだかを当ててみせ、まえもってわかっていたと豪語した。その他、いろいろと不思議をやってみせたのである。そして1600年、第3回公判にてかの学識深いマリネーズ大司教ホヴィウスにより裁判所に呼び出されたとき、チェザーレは出頭せず、とある貴族のもとに亡命した。この貴族は反キリスト擁護の首魁だったのである。
 司法の権威を無視してコンジャラーを不法にかくまった貴族は二年と立たずに壮年にて死亡した。邪悪を擁護してからというもの、かれの城下では物事はなにひとつうまく運ばなかった。この点からみても、神はその敵をかくまう貴族を決して罰さずにはおかないこと明白である。すなわち神はこう明言されているからである。「魔法使いの女は、これを生かしておいてはならない」(出エジプト記22章18節)。

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魔女狩り基本資料 コンペンディウム・マレフィカルム 死体蝋燭 第2書2章 悪魔のレシピ登場。

コンペンディウム・マレフィカルム

第2巻第2章

魔女が人の屍骸を用いて人を殺傷すること

論拠

 昨今、魔女が屍骸を掘り返して人を殺傷することに用いることが慣習となっている。とりわけ死罪や絞首刑に処せられた人間の屍骸が用いられる。魔女はかくもおぞましき材料から魔力を更新するのみならず、処刑に際して用いられた道具すなわちロープや鎖や杭や鉄製品も重用する。事実、この種の物品に固有の魔力が宿るという信仰が広く流布している。

 他の魔女は屍骸を調理して灰状にし、ある種の物質と混ぜて固形の練り物とする。ジョヴァンニ・デラ・ポルタもかれの時代にその種のことが行われていたと触れているし、プリニウス(博物誌27巻7章)も語っている。われわれの時代では、ドイツ領ロレーヌにてこの種の事例を多数裁いたと報告している。



実例

 1586年10月15日ドウジーにおけるアンナ・ルファの告白によれば、彼女はロラなる名前の魔女が埋葬されたばかりの遺体を掘り出す手伝いをしたという。両名は屍骸を焼いた灰から薬を作り、他人を殺傷する際にこれを用いている。

 1587年8月ヴォルパシュにおける魔女ブリシアの証言によれば、父親である鍛冶屋のウォルフによって二日前に埋葬された息子の死体を魔女が掘り返している。先に引用した件と少し違う部分は、死体を灰にせず、溶かして固形にしている点である。そのほうが膏薬に加工しやすいからである。しかし骨は灰にして果樹園の木々に散布し、実がなることを阻害したという。

 1588年12月グエルミンゲンにおいてアントニー・ウェルチは魔女仲間のニチェル・グロスとベスチェスの妻が語った内容を報告している。魔女たちはグエルミンゲンの共同墓地に埋葬された屍骸を二体掘り出し、焼いて灰にしてよこしまな魔女の術に用いたという。しかし焼く前にまず右腕を肩とわき腹の部分から切り落としている。これは先に触れた悪魔の松明を作る際に必要なのである。夜間にだれかに毒を盛ろうと思うとき、魔女たちは死体の腕の指先に火をともす。するとそれは魔女たちが仕事を終えるまで青い硫黄臭を放つ炎をともすのである。そして炎を消したときも、指先はまったく焼けず、減りもしていない。なんど用いてもこの通りになるという。



 ウェルフェルディンゲンのヨハン・ミュラーには一歳の愛児がいた。ピッテルリンゲンのアガティナとホーヘンエックのマイエッタがこの赤子を揺り籠から盗み、ラ・グリスと呼ばれる丘にまえもって用意しておいた焚き火で焼き殺している。両名は残った灰を慎重に集め、これに穀物と草の穂から採取した露を混ぜて、ぽろぽろと崩れやすい状態にしている。魔女たちはこの粉末を葡萄や作物や樹木に散布し、花を枯らせ、実がなることを阻止したという。





解説 : ふたたびフランシスコ・マリア・グァッゾの『コンペンディウム・マレフィカルム』(1608)からの抜粋である。死体盗掘から人脂処理という嫌な話題が中心となっているが、この記述で注目すべきは例の「栄光の手」のロング・ヴァージョン、および青い炎と硫黄臭という具体的描写である。他の作家にも登場するこの不気味な催眠誘発剤は、なんらかの裏付けがある存在なのか、まったくのファンタジーの産物か。ファンタジーにしてもファンタジーなりの裏付けがあるのか否か。ものがものだけに再現実験もままならず、結論が出ぬまま現代に至ったものと思われる。
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魔女狩り基本資料 コンペンディウム・マレフィカルム 第1書6章

コンペンディウム・マレフィカルム

第1巻6章


魔女と悪魔の契約について


論拠

魔女と悪魔のあいだの契約は明文ないし暗黙にて交わされる。明文契約は、なんらかの肉体を有する可視悪魔の臨席のもと、複数の証人をまえにして、悪魔への献身の誓いと賛美という形式で行われる。暗黙契約には悪魔への嘆願書提出が含まれる。また、契約希望者が悪魔に会って話をするのが怖いという場合、魔女ないし第三者を通じての代理契約も可能である。グリランはこれを暗黙契約と呼称している。この契約形式では、悪魔ではなく代理人と交わすことも可能であるが、その場合でも契約自体は悪魔の名義で行われる。このことはグリランが列挙している実例からも明白である。とあるドイツ人女性が風呂から後ろ向きに飛び出しつつ「かくの如くキリストから飛びすさるほど、わたしは悪魔に近づく」と唱えるという希少例は、明文契約に分類するべきであろう。しかし悪魔との契約はすべて一定の共通要素を有しており、それは十一項目に分類される。

 第一に、かれらはキリスト教の信仰を否定し、神への忠誠を撤回する。聖母マリアの守護を拒絶し、聖母への侮辱を山のように積みあげ、淫売呼ばわりする。そして悪魔が神として称えられる。この件は聖アウグスティヌスも確認している。ゆえに殉教者聖ヒポリタスが記す如く、悪魔は次の言葉を強要する。「われは天地の創造者を否定する。自分の洗礼を否定する。以前に神に捧げた礼拝を否定する。わたしはあなたに懇願し、あなたを信奉する」。続いて悪魔は信者の額に爪をかける。聖油を拭い去り、洗礼の痕跡を消し去るという合図である。



 第二に、悪魔は信者に新たなる偽りの洗礼を施す。



 第三に、信者は旧名を捨て、新たな名前を与えられる。例としては、クネノのデラ・ロヴェルがバルビカピラと改名されている。

 第四に、悪魔は信者に対して、洗礼時および堅信礼時の名付け親を否定させる。そして新たな名付け親を割り当てる。

 第五に、信者は悪魔に衣服の一部を与える。悪魔はあらゆる面で信者を我が物としたいからである。霊的物品としては信仰と洗礼を奪い、肉的物品としてはバアルへの生贄と同じく血を要求する。生来の物品としては子供を要求するが、この件は後述する。そして後天的に得た物品として衣服の一部を要求するのである。



 第六に、信者は地面に描いた円のなかで悪魔に忠誠を誓う。おそらくこれは、円が神性の象徴であり、大地は神の椅子であるからと思われる。こうすることで悪魔が天地の神であると思わせたいのであろう。



 第七に、信者は悪魔に対して、生命の書から名前を削除して、かわりに死の書に書き込むよう頼む。ゆえにわれわれは黒い書にアヴィニヨンの魔女たちの名前を読むことができる。



 第八に、信者は悪魔に生贄を捧げることを約束する。バルトロメオ・スピナの報告によれば、とある鬼婆は毎月ないし二週間毎に、悪魔のために子供をひとり絞殺ないし窒息死させる誓いを立てたという。



 第九に、信者は毎年主人である悪魔に何らかの貢物を出さねばならない。そうしないと悪魔に打擲されるからである。また、嫌悪を催す苦役を逃れるために金銭物品を貢ぐ。しかしニコラス・レミも語っているように、これらの貢物は真っ黒のもののみ有効とされる。

 第十に、悪魔は信者の体の一部にしるしをつける。逃亡奴隷に焼印を押すようなものである。このしるしには、無痛のものもあれば大変に痛いものもあるという。悪魔はだれにでもしるしをつけるわけではなく、忠誠心に疑いのある者にのみしるしをつけるとされる。このしるしは一定の模様ではなく、ときにノウサギの足跡のような形、ときに蝦蟇や蜘蛛や犬や栗鼠の足跡のような形である。また悪魔は信者の体の同じ場所にしるしをつけるわけではない。男性の場合、瞼、腋の下、唇、肩、臀部などが多い。女性の場合、乳房、陰部に多いと、ランベール・ダヌやボダンやゲーデルマンが報告している。旧約においては割礼があり、新約においては聖なる十字があるが如く、何事につけ神を真似ることを好む悪魔は、妖術を学ぶ者にあるしるしをつけてきたのであり、それは初代教会の揺籃期より明らかであった。このことはイレナウレスやテルトリアヌスの著作に記されている。



 第十一に、信者はしるしをつけられる際に多数の誓いを立てる。決して聖体を崇めないこと。聖母と聖人に対してつねに侮辱的言動と行動を行うこと。聖遺物や聖像を足蹴にし、破壊すること。十字架、聖水、聖なる塩とパン、その他教会が聖別したものを使わないこと。司祭に対してすべての罪の告白をしないこと。悪魔との取引に関して頑なに沈黙を守ること。一定の日に、できるかぎり空を飛んで魔女の夜宴に出かけ、熱意をもって参加すること。最後に、できるかぎり多数の人間を悪魔への奉仕へ引きずりこむこと。その報酬として悪魔はつねに信者のそばに立ち、現世利益と死後の幸福を約束する。
 レミも記しているように、魔女たちのあいだには冒すべからざる掟がある。たとえば魔女が数人集まってだれかに害をなそうと試みるとする。しかし神の御心により、その人物は毎日礼拝を欠かさず、聖水や聖体によって悪魔の業から守られているとする。こうなった場合、魔女たちは仲間内から悪の犠牲者を出さなければならなくなる。だれかに害をなすべく呪いを発し、それが無効に終わった場合、呪いがわが身にはねかえるという悪魔との契約を完遂するためである。悪魔としても、信者に発した命令が無効になるのは耐えられないのだ。そして不運に見舞われる運命となった魔女は、他の魔女たちになりかわって邪悪に苦しむのである。フレイシンの街に住むキャサリン・プレヴォッテの場合、悪魔はまさにこの状況を現出せしめたのである。この女性は隣人マイケル・コカスの一人娘に毒を盛ろうと考え、何度も試みたのであるが徒労に終わった。母親が毎日、妖術に対抗する祈りとお払いを行っていたからである。終いには、獲物はまだかと悪魔があまりに責めたてるので、この魔女は他ならぬ自分の息子、いまだ揺り籠の中にある赤子のオディロに毒を盛る仕儀に至ったのであった。



 話を戻す。悪魔と魔女の契約および奉仕と忠誠の誓いは、両者のあいだになんらかの悪の共感関係が生じることから始まるようである。この共感がやがて親近感から友情に発展し、信頼にまで至るらしい。魔女はこの気分に甘え、思い上がり、大胆になり、悪魔に注文や要請を出すのであり、悪魔は同盟者の願いをかなえてやることがうれしいらしい。かくして魔女は自信を得、悪魔に命令を下せる身になったと勘違いするのであり、悪魔もその権限を認めるふりをする。このあたりはトリテミウス僧院長が大いに証明している。「悪魔との契約は通例無効にして空虚である。悪魔は決して約束を守らず、守る必要もないと考えている。なにせ悪魔はキリストに対しても"もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう"と平気でうそをつくのである」。
 悪魔は妖術師キプリアヌスに対しても、ユスティナを与えるという約束を破っている。そもそも虚言の父に真実を期待するなど狂気のきわみである。しかし悪魔との契約は空虚で無効というだけではなく、きわめて危険かつ有害である。その点は次にあげる二つの例をもって例示したい。
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