■■追加情報: 『阿片の中国史』
http://takao-sato.seesaa.net/?1332017978
●中国人の父と日本人の母を持つ譚ろ美さん(ノンフィクション作家)が、「アヘン戦争」についての本を出した。
本のタイトルは
『阿片の中国史』(新潮社)である。
●彼女は「アヘン戦争」について、この本の「序章」の中で次のように書いている。
「中国の近代は阿片(アヘン)戦争という理不尽な外圧で幕を開けた。4隻の黒船が近代を告げた日本とは大きな違いだ。この欧米列強との出会いの差が、その後の両国がたどった道の隔たりであり、消すことのできない大きなしこりを残した原因にもなっているにちがいない。阿片という『麻薬』によって、めちゃくちゃに引っかき回された国が、中国以外にあっただろうか? 一国まるごと“阿片漬け”にされた国は、中国だけなのだ。」
『阿片の中国史』
譚ろ美著(新潮社)
●この本は「アヘン戦争」の実態だけでなく、20世紀後半の中国共産党とアヘンの知られざる関係についてや、アヘンと
「サッスーン家」の関係についても詳しく言及されており、なかなか面白い本である。
参考までに、この本の中から、興味深い部分をピックアップしておきたいと思う。
以下、抜粋。
※ 「香港上海銀行(HSBC)」の画像とキャプションは、当館が独自に追加
◆ ◆ ◆
◆ひなびた漁村だった上海は、南京条約による開港で、一夜にして大都会になった。 〈中略〉
欧米の阿片(アヘン)商人たちを中心に外国人定住者が増え、外国租界は異国情緒にあふれた町になったのだ。 〈中略〉
上海が開港したばかりの1842年の人口は20万人だったが、1900年前後には100万人になり、1930年までに300万人に膨れ上がった。イギリスその他の国からなる共同租界では、90%が中国国内の移住者で占められ、フランス租界の人口も5万人から45万人へと爆発的に増えた。
◆
◆1837年、中国には外国の商社が39社あり、その中で「ジャーディン・マセソン商会」は最大の規模を誇ったが、これと並んで二大商社の名を馳せたのは、上海に拠点を置いた「サッスーン商会」である。
21世紀を生きる女性たちにとって、サッスーンと聞いてすぐに思い浮かぶのは、ヘアースタイルの「サッスーン・カット」ではないだろうか。サッスーン社の社長はビダル・サッスーンといい、美容院で販売されている高級シャンプーなどの商品も幅広く生産している。(※
ビダル・サッスーンはロンドン生まれのユダヤ人)。
このサッスーン氏と同じ一族かどうかわからないが、「サッスーン商会」を創業したデビッド・サッスーンは、イギリスのユダヤ系名門の出身で、もとはバグダッドの豪商だったが、1830年にバグダッドの総督がユダヤ人を追放したため、ペルシアへ逃れた。
◆
◆折から戦争状態にあったペルシアでは、特産品の阿片の取引が止まり、値がつかない状態になっていたので、サッスーンは底値で買い入れ、生産中の阿片も予約購入した。
阿片が収穫される頃、戦争が終わり、阿片の値段は再び高騰して、サッスーンは巨額の利益を手にした。その資金を元手に「サッスーン商会」を創設したという。勿論、取引商品は主として阿片であった。やがてイギリスがインドに設立した「東インド会社」で営業許可を得た「サッスーン商会」はボンベイに拠点を据えて阿片貿易に乗り出し、香港にも開店して「沙遜(サッスーン)洋行」と名乗った。
◆
◆サッスーン家の、優れた部分もご紹介しておこう。
イギリスのサッスーン家は慈善事業でよく知られ、
ユダヤ人救済運動にも貢献している。3人の息子たちはイギリス社交界の名士になり、孫のエドワード・サッスーンは政治家である。その息子のフィリップ・サッスーンは空軍次官だったが、美術品の収集家として名が通っている。
サッスーン家の傍系にはヘブライ語文書の収集家のフローラ、詩人で小説家のジークフリード、実業家のビクターなどもいて、多士済々で華麗な一族である。
◆
◆阿片売買のために、上海へ先陣を切って乗り込んだのも「サッスーン洋行(沙遜洋行)」だった。
1845年、上海の目抜き通り(現在の江西路と九江路の交差点)に支店を開いた。
当初、上海の阿片貿易の20%を占めるほどの大取引に携わり、人手が足りずに14人もの親族を呼び寄せ、業務拡大した。
◆
◆1864年、創業者のデビッド・サッスーンが亡くなると、「サッスーン洋行」は長男が引き継ぎ、次いで次男が独立して「新サッスーン洋行」を開業した。
新旧の「サッスーン洋行」は、互いに協力しながら、インドのケシ畑の“青田買い”をしたり、独占買い付けをしたりしながら、アジア全域に幅広いネットワークを築いた。 〈中略〉1870年代には、「サッスーン洋行」はインドの阿片貿易の70%をコントロールするまでに成長するのである。
◆
◆「ジャーディン・マセソン商会」と「サッスーン洋行」──。
この2つの巨大商社を筆頭にして、その後も続々と貿易商社が進出してきた。「デント商会(宝順洋行)」、「ギブ・リビングストン商会(仁記洋行)」、「ラッセル商会(旗昌洋行)」などのイギリスとアメリカの商社がいる一方、中小の地元商社やアジアからの商社などが雨後の竹の子のように増え続けた。
不確実な数字だが、外国の商社は1837年に39社だったものが、20年後には約300社に増え、1903年には、なんと600社以上にものぼったという。
◆
◆欧米の商社が業務を拡大し、取引金額が増えるに従い、なにより頭を悩ませたのは資金の安全な輸送方法だった。イギリス流の解釈では、「イギリスが中国から資金を取り戻す」ための安全で迅速な手段が必要とされたのである。
よいアイデアはすぐに浮かんだ。
銀行の設立である。
1865年3月、「サッスーン洋行」、「ジャーディン・マセソン商会」、「デント商会」らは15人の代表発起人を決め、資本金500万ドルを投じて香港に「香港上海銀行(HSBC)」を設立した。サッスーン・グループのアーサー・サッスーンら8人が理事会役員に就任し、1ヶ月後には上海で営業を開始した。「香港上海銀行」の最大の業務は、阿片貿易で儲けた資金を安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することであった。

1865年に、ロスチャイルド一族のメンバーであるイギリス系
ユダヤ人のアーサー・サッスーン卿によって香港で創設され、
1ヶ月後に上海で営業を開始した「香港上海銀行(HSBC)」。
この銀行の設立当初の最大の業務は、アヘン貿易で儲けた
資金を、安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することであった。
この銀行は、第二次世界大戦前、上海のバンド地区を中国大陸の本拠と
していたが、1949年の中国共産党政権成立後の1955年に、本社ビルを
共産党政権に引き渡した。その後、中国各地の支店は次々に閉鎖された。
しかし現在、この「香港上海銀行」は、英国ロンドンに本拠を置く世界最大級の
銀行金融グループに成長している。ヨーロッパとアジア太平洋地域、アメリカを
中心に世界76ヶ国に9500を超える支店網をもち、28万人の従業員が働き、
ロンドン、香港、ニューヨーク、パリ、バミューダの証券取引所に上場している。
時価総額規模では、アメリカの「シティグループ」、「バンク・オブ・アメリカ」に
次ぎ世界第3位(ヨーロッパでは第1位)である。現在、香港の「中国銀行」
及び「スタンダード・チャータード銀行」とともに香港ドルを発券している。
◆
1860年代から70年代にかけて、彼ら(ユダヤ系の「サッスーン洋行」など)を通して中国へ輸出されたインド産阿片は、毎年平均で8万3000箱にのぼった。一箱は約60kg。国内生産の阿片が増加するにつれて、外国阿片は少しずつ減少していくが、ピークの1880年代には10万5507箱が輸出され、上海には年2万2000箱が送り込まれた。
上海の町には、阿片の濃い煙が充満した。
阿片は街のいたるところで合法的に売られ、客はいつでも手軽に買うことができた。
◆
◆時代の流れが変わったのは、1906年のことだった。
アメリカの宣教師たちが阿片生産の禁止を国際世論に広く呼びかけると、国際的に阿片貿易への非難の声が高まった。清朝政府は、「イギリスがもし輸出を削減するなら、中国も阿片の生産と喫煙を禁止するしと発表。イギリスも、「10年禁絶を目標に毎年段階的に削減していく意向がある」と応じ、翌年には
「中英禁煙協約」が交わされた。
1911年、ハーグで
「国際阿片会議」が開かれ、世界の潮流は阿片の輸出禁止と生産禁止という明るい未来へ向かって、栄えある第一歩を踏み出した。いや、踏み出そうとした。
ところが、そうなっては都合の悪い人たちがいたのである。
◆
◆外国商社は色めきたった。10年という期間を限定されたことで、今のうちに儲けるだけ儲けておこうと考えた。
「サッスーン洋行」ら上海の阿片商社は即座に「洋薬公所」を結成すると、上海の輸入阿片の総量をコントロールする一方、潮州商人と協定を結んだ。「洋薬公所」といえば聞こえはよいが、つまり「阿片商人の大連合会」である。外国人貿易商たちはペルシア産とインド産阿片の独占輸出体制を築き、流通ルートは潮州商人一本に絞られた。無論、阿片の価格は急騰した。最高値のときには、なんと銀の7倍まで跳ね上がったというから、驚くほかはない。
◆
◆阿片商人の悪辣さはこれに止まらない。
10年の期限が近づくと、「洋薬公所」は関係ルートを使って時の政権、北京政府と交渉し、残りの阿片を全部買い取らせることに成功した。1919年、北京政府は阿片を購入後、公開処分した。
こうして世界が監視する中で、中国の
「阿片禁止令」は着々と執行されることになった。このまま順調にいけば、もしかしたら中国からも地球上からも阿片は一掃され、クリーンで美しい世界が訪れたかもしれない。
だが、事態はそうはならなかった。
禁令とは、すなわち商売繁盛だ──。 〈中略〉
アメリカで1920年に制定された「禁酒法」が、この言葉を生んだのだ。政府が酒類の醸造と販売を禁止したことで、シカゴを縄張りにしたアル・カポネのギャング団が密造酒を裏取引し、暗黒街の犯罪が急上昇してしまったのである。
時期も同じ1920年、中国では阿片が禁止され、同じような事態が生じていた。阿片の密輸に火がつき、以前よりもかえって大量の阿片が出回る事態になったのだ。
◆
◆当時上海に滞在していたフランス人弁護士リュッフェの試算によると、1920年代後半の全中国の阿片消費量は、毎年7億元にのぼったという。
「中華国民禁毒会」の集計ではさらに多く、
毎年10億元を消費し、そのうち国産阿片は8億元、外国阿片は2億元であったという。また、上海の阿片貿易による収益は毎年4000万元以上、あるいは7、8000万元から1億元にものぼると推測される。
なにしろ密輸だから正確な統計はないが、阿片の消費量が、膨大なものであったことは間違いないだろう。
◆ ◆ ◆
以上、譚ろ美著『阿片の中国史』(新潮社)より
■■追加情報 2: 「サッスーン財閥」の歴史
●「日本上海史研究会」が1997年に出した『上海人物誌』(東方書店)には、「サッスーン財閥」の歴史について詳しい説明が載っている。
少し長くなるが、参考までに抜粋しておきたい。
※ 各イメージ画像とキャプションは、当館が独自に追加
『上海人物誌』(東方書店)
日本上海史研究会[編]
■エトランゼの上海
◆上海は清朝がイギリスとの「アヘン戦争」に敗れた結果結ばれた「南京条約」により、1843年11月開港した。
上海はイギリスによって、イギリスのために開港され、
イギリスの中国市場支配の拠点となった。これは動かしがたい事実である。
◆自由貿易による世界市場を展開するにあたって、19世紀半ばのイギリスは、シンガポール以東の西太平洋地域においては、各地域の政治経済の中心地に近く、かつほとんど無人の地に良港を獲得し貿易拠点とする戦略を取っていた。シンガポールに加え、香港・上海・横浜などはみなこの戦略に合致する港である。
旧イギリス租界の正面に位置する外灘の建築列のファサードには、現在でも上海がイギリスを始めとする列強の中国市場支配の拠点となってきた歴史が色濃く刻み付けられている。しかし人々がそれを「偽りの正面」と呼ぶように、上海を単に国際貿易の要という意味で外から眺めた場合においてさえもその奥にひしめくものに気付かされる。 〈中略〉
◆イギリス勢力が東アジア海域に進出した18世紀末にその貿易の中心となっていたのは、「イギリス東インド会社」というより会社によってライセンスを付与された地方貿易商人であり、彼らが従事したのは、イギリスとアジアとの貿易というより「アジア間貿易」であった。
さらにこの時期にはイギリスによるアヘン三角貿易によって
「アジア間貿易」が拡大せしめられていた。
■アジアの都市・上海
◆この「アジア間貿易」自体は、ヨーロッパの大航海者が参入する以前から、「海のシルクロード」として、また中国を中心とする朝貢貿易のネットワークとして存在しており、そこは日本と琉球・中国・東南アジアやインド・イスラム圏の商人たちが活躍する舞台であった。
最近
「海のシルクロード」と呼ばれるようになったインド洋・南海交易圏には、航海・造船技術の点でも中国より先進的な海洋民が活躍しており、8世紀以降はイスラム化され、ダウ船と呼ばれる三角帆の構造船が航海の主役となっていた。
そこにはイスラム教徒だけでなく、アラブ圏のユダヤ人やアルメニア人も含まれていた。たとえばインド洋・南海交易圏において最大の商品であった胡椒(こしょう)の産地に隣接する積出港であるインドのコーチンには、紀元1世紀以来ユダヤ人貿易商が住み着き、今世紀半ばに至るまでコーチンの胡椒貿易を独占した。現在もコーチンで胡椒の取引を行なう市場は「ジュー・タウン」(ジューはユダヤ人の意)と呼ばれている。
◆「サッスーン財閥」は、上海開港後にいわば二番手として登場したイギリス商社で、イギリスの支配する開港場上海の代表とも目されるが、その実、サッスーンは二代のうちにアラブ圏のユダヤ人からイギリス紳士へと変身を遂げたユダヤ商人であって、アヘン三角貿易の申し子ともいうべき存在である。
イギリス紳士とはいいながら、その存立の基盤の一方はユダヤ人のネットワークに置いており、いわば「海のシルクロード」を舞台とするアジア人の商人という性格を持ち続けていた。イギリスのアジア市場展開の一面はサッスーンの活動を通じてより明らかとなろう。■「海のシルクロード」とユダヤ人サッスーン
◆上海外灘のウォーターフロントでもっとも目立つ建物といえば、旧香港上海銀行(上海本店)と並んで、現在和平飯店北楼として使われている旧サッスーン・ハウスであろう。
私は1970年代末の最初の訪中のときに和平飯店に滞在して旧名がキャセイホテルだということを聞き、その後の滞在の間にこのホテルがイギリスのユダヤ人財閥によって建てられたことを知った。そのユダヤ人財閥は
サッスーンといい、ジャーディン・マセソン、バターフィールド&スワイヤー、英米タバコと並ぶ上海のイギリス系四大財閥の一つであった。
「サッスーン財閥」はイギリスでもロスチャイルドと並び称されるユダヤ人大財閥であったが、いろいろな点でロスチャイルドとは対照的であった。何よりも、ロスチャイルド家がドイツのフランクフルト出身のヨーロッパのユダヤ人であったのに対し、サッスーン家はアジアのユダヤ人、「海のシルクロード」で活躍するユダヤ人であった点である。
◆
◆「陸のシルクロード」も「海のシルクロード」も古くからユダヤ人の生活舞台であり、8世紀から12世紀にかけてこれらの地域がイスラム世界に包摂されるようになっても、引き続き活動の場を広げていった。
もともとイスラム世界には「ユダヤ人」という考え方はなく、「啓典の民」ユダヤ教徒として、自治が認められ、各都市で一定の役割を与えられるようになっていた。
◆サッスーン家の祖先も、代々、イスラム帝国の都であったバグダッドの名族で、オスマン帝国の支配下では、オスマン帝国によって任じられたバグダッドの「ヴァリ」と呼ばれる地方長官のもとで、主席財政官の地位を与えられ、ユダヤの「族長(シェイク)」とみなされていた。
ところが18世紀後半になると、バグダッドではユダヤ教徒に対する圧迫が強まり、19世紀前半には当主の
サッスーン・ベン・サリは一時族長の地位を追われた。1826年、サリの子
デビッド・サッスーン(1792〜1864年)が族長の地位を引き継いだが、彼は「ヴァリ」の迫害に抗議したため身に危険が迫ってきた。
1829年、デビッドは老父を伴い、夜陰に乗じてバグダッドを脱出し、バスラに移住した。バスラは別の「ヴァリ」が統治していたが、ここもサッスーンにとって安住の地ではなく、間もなくシャトルアラブ川(チグリス川とユーフラテス川が合流した川)の対岸、ペルシアのブシェルヘと再度移住した。ブシェルは当時ペルシアにおける「イギリス東インド会社」の拠点となっており、インドヘの道が開かれていた。

デビッド・サッスーン
インドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、
アヘン密売で莫大な富を築く。
「アヘン王」と呼ばれた。
◆
1832年、デビッドは商用でインドのボンベイ(現在のムンバイ)を訪れ、イギリスの勢力を目のあたりにした。熟慮の末、同年デビッドはサッスーン家を挙げてボンベイに移住を果たした。当時のボンベイは人口20万、ユダヤ人も2200人を数えた。この頃ボンベイは発展の時期を迎えていた。産業革命後、イギリスのランカシャ綿製品がインドに流入し、「東インド会社」の貿易独占も廃止され、ビジネスチャンスが広がっていた。ボンベイに来たデビッドは、1832年に「サッスーン商会」を設立し、ボンベイで本格的に活動を開始した。これが「サッスーン財閥」の始まりである。
◆この頃、イギリス綿製品がインドヘ、インドのアヘンが中国へ流入するという「アジア三角貿易」が形成されてきていた。このルートに乗って「サッスーン商会」はイギリスにも支店を開設し、ランカシャ綿の輸入などにあたるほか、後述のように「アヘン貿易」に従事した。
また、1861年アメリカで南北戦争が起こってアメリカ綿花の取引が途絶すると、「インド綿花」を輸出して巨利を上げた。
◆デビッドは1864年に死去したが、「サッスーン商会」は綿花ブーム後の不況をも乗りきり、2代目アルバート・サッスーンのもとで発展を続けた。
■「アヘン王」デビッド・サッスーン
◆デビッド・サッスーンは1854年にイギリス国籍を取得したが、アラブ化したユダヤ人として終生アラブ風の習慣を改めることはなかった。彼はアラビア語・ヘブライ語・ペルシア語・トルコ語、後にはヒンドスタン語をも解したが、英語を習得することはなかった。
◆デビッド・サッスーンはイギリスの世界市場展開に伴ってアジア市場に参入したかに見えるが、事実は逆であることは、彼自身の生活態度に現れている。
すでに大航海の初発、すなわち15世紀末の
ヴァスコ・ダ・ガマの「インド航路発見」のとき、インドでガマを迎えたのは
ハンガリーから来たユダヤ人であった。
デビッドがバグダッドを脱出してボンベイで成功を収めることができたのも、インド洋交易圏に広がるユダヤ人のネットワークを通じたからであった。そしてイギリスがアジア市場に進出してきたのも、大航海以前に既にアジアに存在していた、中国からインドを経てアラビア世界にいたる交易圏を前提にしていたのであった。
◆デビッドはビジネスで成功すると、同胞のユダヤ人への恩を忘れなかった。彼は私財を惜しげもなく慈善事業に投じた。特に、1861年、バグダッドにユダヤ教に基づく学校
「タルムード・トラー」を設立し、後継の養成に資したことの意義は大きい。
「サッスーン商会」の幹部職員はこのユダヤ学校からリクルートされることになったのであり、「サッスーン財閥」が「イギリス帝国主義の尖兵」という姿の奥に「海のシルクロードのユダヤ商人」という原籍を持っていたことは、その活動の最後に至るまで見出すことができる。
◆
◆ボンベイの「サッスーン商会」は2代目アルバート・サッスーンのもとで工業投資に力を入れるようになった。
1885年以後、「サッスーン商会」は7つの紡績工場、1つの毛織物工場を持ち、インド工業化に大きな役割を果たした企業の1つと評価されるようになった。
インドでサッスーンが産業資本の性格を持つという事実は、上海におけるサッスーンの活動とは好対照をなすといえよう。またアルバートは親子二代にわたる多大な慈善事業が評価されて、
1872年、ナイトに叙せられた。この地位は上海のサッスーン家にも引き継がれていくことになる。
■上海と「新サッスーン商会」
◆デビッドがアジア三角貿易展開のため東アジアを重視したのは当然である。彼が華南の商業圏に参入したことは、「サッスーン商会」のターニング・ポイントとなった。
「南京条約」(アヘン戦争に敗北した清朝が南京でイギリスと結んだ条約)締結後の1844年、デビッドは次男の
イリアス・サッスーンを広東に派遣した。次いでイリアスは香港に移動し、1845年には上海支店を開き、後には日本の横浜・長崎そのほかの都市にも支店網を広げた。
そして上海が「サッスーン商会」第2の拠点となった。ところで、中国におけるユダヤ人の足跡も、イギリスの世界市場展開を遥かにさかのぼる。イリアスも、1844年に中国に来たとき、10世紀から存在した
開封のユダヤ人について聞いたはずである。彼らは完全に中国人に同化しながら清代にまで生き延び、1652年にはシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を再建していた。
◆
◆イリアスの弟アーサー・サッスーンは1865年、「香港上海銀行(HSBC)」の設立にも参加し、中国での活動の地歩を固めた。
しかしデビッドの死後、「サッスーン商会」の管理権はユダヤの慣習に従って長子アルバートが継承したので、イリアスは1872年、別会社として
「新サッスーン商会」を設立した。上海の「サッスーン商会」の活動は、この新会社が中心となった。

◆「新サッスーン商会」の活動は次の三期に分けられるとされる。
第一期は1872〜1880年、「アヘン貿易」を中心とする時期。第二期は1880〜1920年、イリアスの子ヤコブと
エドワードの時代で、不動産投資に精力が注がれた。
第三期は1920年以後、エドワードの子ビクターが不動産だけでなく、
各種の企業にも盛んに投資し、上海の産業を独占していった時期である。
◆
◆19世紀の新旧「サッスーン商会」の営業は、何といっても「アヘン輸入」が中心である。この点は、ほかの外国商社と比較しても際立っている。
開港間もない1851年、上海に入港した外国商社の船のうち、ジャーディン・マセソン、デント、ラッセルの3大商社のうち、イギリス系の前3社はいずれもアヘン輸入を大宗としたが、サッスーンの船2隻に至ってはアヘンのみを搬入し、空船でインドに帰っている。1870〜1880年代にはインドアヘン輸入の70%はサッスーンが独占した。サッスーンの強さは、他社とは違い、アヘンをインドの産地で直接買い付けたことにあった。

(左)ケシ(芥子)の花。アヘンはケシの実に傷をつけ、そこからにじみ
出てきた乳液から作られる薬である。
(右)インドのアヘン倉庫内の様子
◆デビッドの孫
ヤコブ・サッスーンの代になると、アヘンは輸入品目首位の座を綿製品に譲り、国際的にもイギリス国内でもアヘン禁止の声が高まり、1908年には「中英禁煙協約」が締結された。それでもサッスーンが
アヘン取引にこだわったことは、1920年代の「新サッスーン商会」の文書からも明らかである。
アヘン禁止による価格の上昇が巨利をもたらしたからである。
■「アヘン王」から「不動産王」へ
◆「サッスーン財閥」はアヘンで儲けた金を土地の買い占めに回したと非難されるが、20世紀にはアヘンなどの商業に加えて不動産も主要業務となる。
サッスーンが1877年、最初に手に入れた土地は、あの和平飯店の土地、サッスーンの活動拠点となる
「サッスーン・ハウス」の土地であった。「新サッスーン商会」が不動産事業に乗りだしたのは、上海共同租界当局の工部局が財政需要の増大から土地捐をしばしば引き上げたため、地価が不断に上昇し、土地投資が有利となったためである。
「サッスーン財閥」はユダヤ人の不動産王サイラス・ハードンから上海の繁華街南京路の不動産を入手したのを始め、さまざまな手段を用いて不動産を取得し、また建物の賃貸業務などで利潤を上げた。1941年までに上海に建てられた26棟の10階以上の高層建築のうち、6棟が「サッスーン財閥」の所有であった。「サッスーン財閥」は1926年に「キャセイ不動産」を設立したのを始め、たくさんの子会社や関連企業を設立して業務を拡大し、上海の「不動産王」となった。
サイラス・ハードン
◆上海を代表するユダヤ人不動産王にあって、サッスーンとハードンは対照的である。
ハードンはサッスーンと同じくバグダッド(現イラク)に生まれたユダヤ人だが、サッスーンのようなユダヤ名族ではなく、5歳でボンベイに移住し、1873年にサッスーンで働いていた父の友人を頼って香港から上海に来たときは無一物であった。彼は上海の「サッスーン商会」に雇われ、1886年には「新サッスーン商会」に移った。そして1901年に独立し、不動産業に乗りだした。
サッスーンがイギリスの爵位を得てイギリス上流階級入りを果たし、ロスチャイルドとも姻戚関係を結んだのに対し、ハードンは租界の範囲において1887年にフランス租界公董局董事となり、1898年には共同租界工部局董事になるほか、さらに中国そのものに同化していった。この点では、彼の中国人の妻・羅迦陵(らかりょう)の影響が大きい。彼女の影響でハードンは篤く仏教に帰依し、1904年には「ハードン花園」を建造して中国の人士と交際するサロンとした。その中には清朝の皇族から革命派の人物までが含まれる。
しかしサッスーンは武器売却先の軍閥など取引相手を除いて、租界の外の中国人とは交わらず、盛んに行なった慈善事業の対象も、中国ではなく、世界のユダヤ同胞が中心であった。■「上海キング」ビクター・サッスーン
◆ビクター・サッスーンは1924年、父エドワードの死により爵位と「新サッスーン商会」の経営を引き継いだ。彼はケンブリッジのトリニティ・カレッジ出身の完全なイギリス紳士であり、若くから航空マニアで、第一次世界大戦中にはイギリスの航空隊に加わって負傷した。

ビクター・サッスーン
◆彼が上海に君臨したことを象徴する建物がかの
「サッスーン・ハウス」である。このビルはパーマー&ターナーの設計で、1929年に完成した。ヨーロッパ式に数えて10階建(日米式では中2階を含めて12階)で、4階から上はホテル、10階は彼自身の住居にあてられた。
彼はまた上海西郊の虹橋路に買弁の名義で別荘を営んだ(現在の龍柏賓館)。
さらに、租界の治外法権を利用して
中国側の建築計画にも干渉した。1934年、「サッスーン・ハウス」の並びに中国銀行のビルが建ったが、当初の計画ではマンハッタン風の34階建の摩天楼になるはずであった。ところがサッスーンはロンドンで訴訟を起こし、自己のビルより30cm低い中国風の屋根を持つ現在の建物に計画変更させてしまったのである。

1929年に建てられた「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」
◆
「サッスーン財閥」は、産業資本・金融資本としての地歩をも固めた。インドの「サッスーン商会」と比べると、上海に中心を置く「新サッスーン商会」は後までも「アヘン貿易」にこだわり、工業投資はあまり活発ではなかったが、この状況を変えたのが、1923年の安利洋行買収であった。安利洋行の前身はドイツ系の瑞記洋行で、第一次世界大戦後は共同経営者であったイギリス籍ユダヤ人のアーノルド兄弟が安利洋行として復業した。アーノルドは上海共同租界の工部局董事や総董を歴任する一方、紡績・造船などさまざまな企業を興していた。ところが1923年の不況時には経営不振に陥り、サッスーンの買収に帰した。業績不振の企業やその不動産を乗っ取るのはサッスーンの常套手段であった。間もなくサッスーンは経営陣からアーノルド兄弟を駆逐し、すべてを自己の支配下に置いた。この結果「サッスーン財閥」は、紡績・機械・造船・木材のほかバス会社(中国公共汽車公司)をも傘下に置いた。「サッスーン財閥」はまた1930年、香港に「新サッスーン銀行」を設立し、上海・ロンドンなどに支店を開設するほか、いくつも投資会社を設立して金融力により上海の産業を支配した。 〈中略〉
◆
◆第二次世界大戦後、租界が回収され、中国の民族意識が高まると、上海はもはや冒険家の楽園ではなくなった。上海のサッスーン財閥直属企業はすべて香港に移り、上海には支社のみを残して業務を大幅に縮小した。そして1948年には第二次撤退を断行し、不動産を一斉に投げ売りし、バハマに移転した。残った不動産も1958年に至り最終的に中国に接収され、「サッスーン財閥」は中国から姿を消した。
時は移って現在、かつて上海最大のイギリス財閥であった
「ジャーディン・マセソン商会」は香港からバミューダに本社を移す一方、再び中国との関係を深めている。この動きと比べると、興味深い。

(左)ウィリアム・ジャーディン(右)ジェームス・マセソン
彼らは1832年、中国の広州に貿易商社
「ジャーディン・マセソン商会」を設立した。
↑「ジャーディン・マセソン商会」のシンボルマーク
この会社の設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶の
イギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。
(1841年に本社を香港に移転した)。
◆史上イギリス資本の世界市場展開、イギリス帝国主義のアジア支配と呼ばれている事態も、事実に即していえば、まずアジア市場を開拓したのはもともとこの海域でアヘン密売をしていた地方貿易商人のジャーディンやマセソンであった。さらにさかのぼると、イスラム圏からインド圏を経て東アジアに至る海域にはイスラム商人やユダヤ人・アルメニア人などが活躍していた。
サッスーンもこのルートに乗って中国に至ったのである。
さらに開封のユダヤ人やサイラス・ハードンのように終着点の中国に安住の地を見出す人々(ユダヤ人)もいた。これからの世界に占めるアジアの力量を考えると、アジアの海から世界を見る視角も意味を持ってくるといえよう。
以上、日本上海史研究会[編] 『上海人物誌』(東方書店)より
■■追加情報 3: 台湾における日本のアヘン政策について
●19世紀末、「日清戦争」に敗北した清国は下関条約により、台湾及び澎湖諸島を日本に割譲したが、台湾における日本のアヘン政策については、次のような情報がある。
参考までに紹介しておきたい。
「日清戦争後の下関の談判において、清国の全権李鴻章は、『アヘンには貴国もきっと手を焼きますぞ』と捨てぜりふを残していったそうな。当時16万9千人もいたアヘン中毒患者の問題を日本がどう処理するか、世界各国も注目していた。
『わが国に伝播したらなんとする。吸引するものは厳罰に処すべし。輸入や販売を行なう者についても同様だ。従わないものは台湾から追い出せ。中国大陸に強制送還せよ。』
このような『厳禁説』がさかんに唱えられたが、後藤新平は、『これでは各地に反乱が起き、何千人の兵士や警官が犠牲になるかわからない』と反対して、『漸禁説』をとった。『まず中毒にかかっているものだけに免許を与え、特許店舗でのみ吸引を認める。新たな吸引者は絶対に認めない。アヘンは政府の専売とし、その収入を台湾における各種衛生事業施設の資金に充当する。』
アヘンを政府の専売とするという破天荒なアイデアであったが、後藤新平の読み通り、大きな混乱もなしに、アヘン中毒患者は次第に漸減して、日本敗戦時には皆無となっていた。」

後藤新平
明治・大正時代の政治家。
台湾総督府民政長官。初代満鉄総裁。
後藤新平はアヘンの性急な禁止には賛成せず、
アヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、
吸引を免許制として、次第に吸引者を減らしていく
方法を採用した。この方法は成功して、
アヘン患者は徐々に減少した。
※ 参考リンク: 人物探訪: 台湾の「育ての親」、後藤新平
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog145.html
■■追加情報 4: 中国東部の「開封」にユダヤ人社会が築かれていた
●13世紀のころ、北京にやってきたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で、
「中国東部の開封には大いに栄えているユダヤ人社会が存在していると聞いた」と記している。

マルコ・ポーロ
(1254〜1324年)
●この「開封(かいほう)」は中国で最も歴史が古い都市の一つであり、
850年前の北宋時代に首都になった。(当時100万人の国際都市だった)。

(左)中国の河南省の都市・開封の位置 (右)開封のユダヤ人家族
(1910年)

開封の中国風シナゴーグ(ユダヤ教会堂)

開封のユダヤ人たち (1924年)