2012年03月11日

サバトの幻影『黒魔術の手帳』澁澤龍彦著から

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バフォメット=バアル=ベルゼバブ=オシリス

『黒魔術の手帳』
澁澤龍彦著(河出文庫)からp101〜「サバトの幻影」を抜粋。

 
グレゴリオ聖歌の作者として名高い法王グレゴリオ一世が、『対話集』という本の中に、面白いエピソオドを書き残している。ある若い修道女が悪魔を呑み込んでしまったという話である。
 あるとき修道院の庭で彼女がレタスの葉を摘んで食べていると、お腹の中に悪魔が入ってしまったような気がした。さあ大変、修道院中がおおさわぎになって、さっそく悪魔払いの儀式が行われた。坊さんが厳粛な顔をして、娘のお腹の中の悪魔に向かって、「早く出て来い、そんなところにもぐり込む奴があるか」と説諭する。すると悪魔は、「誰が好きでこんなところに入り込むかね、俺がせっかくいい気持に葉っぱの上で昼寝していたところ、この娘に摘んで食われちまったんじゃないか」と、いかにも心外らしい。結局、悪魔は簡単に追い出されて、けりいが着いたという話である。
 六世紀末頃の、まことにのんびりした無邪気な物語で、これがやがて数百年後、ヨーロッパ中の村々や修道院に疫病のように広がった。あの恐ろしい妖術信仰のはるかな前徴であるとは、さすがの大法王グレゴリオにも考え及ばなかったに違いない。まだこの時分は悪魔の力も微々たるものだった。
 ところが十三世紀も中葉になると、ドイツで妖術を研究したという法王グレゴリオ九世が、異端アルビ派の撲滅のためのインキジション(宗教裁判所)というものを設けて、あらゆる背教者、異端者、妖術使に対して苛酷極まりない火刑台を用意するまでになった。もっとも、このインキジションがもっぱら妖術迫害に大車輪のように活躍するようになるのは、十六、十七世紀のことであるが、ともかく中世一千年間を通じて悪魔の勢力が拡大したこと、まさに燎原の火のごときものがある。グレゴリオ九世の大勅書には、悪魔主義者たちのサバト(夜宴)の模様が、実に詳細にわたって論じてあった。
 では、一体、サバトとは如何なるものであろうか。何故、これが厳しく禁止されねばならないのであろうか。・・・・・・・
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サバトへの出発

月の明らかな夜(満月)、人気の無い田舎道を三々五々、集会の場所へ向かって急ぐ男女の群れが見える。老いも若きも、何か目に見えない力に引き付けられるように、黙々と足を運ぶのである。やがて淋しい四辻の広場にくると、この妖しい深夜の集会の司祭が待っている。女たちは蝋燭を取り付けた竿や箒(ほうき)を持っている。集会場に来ると、その箒にまたがって、踊りの輪の中に加わり、飛び跳ねたり喚いたりするのである。暗いところにうずくまった女魔術使の一団が、奇声を発して彼女たちに答える。時ならぬ深夜の叫喚や野蛮な音楽が風に乗って百姓家に達すると、信心深い人たちは急いで戸を閉めて、十字を切る。集会の場所は大きな枯木や道路標の下とか、徒刑場の近くが特に選ばれた。


ちなみに中世の夜宴(サバト)は、古代のバッカス祭やプリアプス祭の復活のような形で、もっぱら田舎の野外で行われていたのに、近代に至ると、それが都市の教会内部に侵入し、黒ミサと言う名で呼ばれるようになった。貧しい民衆の開放的なお祭騒ぎが、時代とともに、段々と秘密めいた、陰惨な、密室犯罪的な形に変化していったのである。こうして近代の黒ミサは、民衆には縁遠い、頽廃的な貴族の専有物となった。
 言葉を変えれば、キリスト教の権威が次第に各階層に広まるにつれて、悪魔が民衆を集めて、悪魔自身のお祭をする余地がなくなり、教会内部へ逃げ込んだという訳なのである。従って、黒ミサを執行する司祭は、もっぱら悪魔と取引を結んだキリスト教の破戒僧であった。悪魔はついにキリスト教にとって、獅子身中の虫となったのである。
 黒ミサの起源は、一般に中世フランス南部に広まり、一二世紀の終わり頃、法王グレゴリオ九世の命によって鏖殺(みなごろし)された、キリスト教異端アルビ派から出ていると言われているが、果たしてこのアルビ派がどの程度、実際に悪魔礼拝にふけっていたかについては、確かな証拠はない。エリファス・レヴィの意見によれば、アルビ派とは、善悪二元論を信じるゾロアストル教の頽廃した形だそうであるが、しかし、この一族は、一名純潔派とも言われている通り、極めて厳格な戒律を持った、禁欲的な集団だったことも事実のようである。また、キリストの化肉や十字架の象徴を認めないグノーシス的な聖堂騎士団の流れも、古くから両性具有の悪魔バフォメットを崇拝し、黒ミサ的な秘儀を行っていたと信じられている。カトリックが教会で行う神を崇拝する集会のことを「ミサ(Mass)」と言います。「黒ミサ(Black Mass)」とはその真逆の行為であり、悪魔を崇拝、信仰し、その力を得んとする儀式や集会のことを言います。


 けだし、サバトは古代から民間に伝わる、グロテスクな欲望の解放であった。そして、この異教の儀式が不吉なものと見なされるようになったのは、前述のごとく、ロオマ教会が異端や妖術を危険視するようになってからのことである。全ての悪は中世とともに始まった。
 十一世紀の歴史家ジョン・マームスペリイは、ロオマの大道で二人の老婆が人間を馬に変え、馬市場に連れて行って売ってしまった、という奇怪な話を書き残している。また哲学者ジョン・ソールスペリイは、妖術師たちの夜宴に悪魔が山羊や猫の姿をして現れたことを物語っている。悪魔学や鬼神論のいちじるしく発達した十三世紀には、ドミニコ派の学僧ヴァンサン・ド・ボオヴェが、箒にまたがって空高く夜の集会へ飛んで行く女妖術師のことを報告している。
 女妖術師が空を飛ぶということは、十八世紀まで通説になっていた。イタリアの鬼神論者マリア・ガッシウスの『コンペンディウム・マレフィアルム』(巫妖捷径)という本には、翼のはえた山羊にまたがって空を飛ぶ女妖術師の挿絵がある。有名なコンスタンツ市の法律顧問ウルリッヒ・モリトオルの、吸血魔女ラミアを論じた『妖怪あるいは魔女について』(一四八六)という本には、稚拙な木版画の挿絵があって、それぞれ驢馬と禿鷹と仔牛の頭をした三人の妖術師が、熊手にまたがって飛んで行くところが描かれている。妖術師は動物に化けることが出来ると信じられていた。また時には、古代のバッカス祭におけるように、色んな動物の仮面を被ることもあった。
  サバトの集会の目的は何であったか、そこでどんな淫靡な儀式が行われたのか。さあ、これは大変正確を期しにくい問題である。というのは、我々の集める資料は、ほとんど妖術師の宗教裁判における告白に由来しており、その告白はまた、拷問によって無理矢理に引き出されたものが大部分だからである。むしろ妖術使の側の混乱した夢想と、裁判官の側の鬱積した妄念と、両方の抑圧されたリビドーが合体して、いよいよこの告白を誇大にした傾きがなくもない。妖術師の裁判官には、陰険なサディストや気違いじみた迷信家がたくさんいたことにして事実を隠蔽するように記載されている。
 サバトの裁判記録は地方によって違っているけれど、妖術師が空を飛ぶために、出発の前に炉の前で裸になり、全身に香油を塗るというのは、どの悪魔学者も一致して認めているところである。香油は一種の麻酔剤であって、同時にベラドンナ(茄子科の毒草)のような興奮剤もしばしば服用された。
 妖術師たちの薬物使用は、必ずしも中世に始まったことではない。ロオマは頽唐期の戯作者アプレイウスの小説『黄金の驢馬』に、「パンフィレエはすっかり着ていた着物を脱いでしまうと、とある筐を開いて中から小箱を取り出し、その中に入った膏油をつまみ取ると、ながいこと掌でこね付けておりましたが、そのうち足の爪先から頭髪の先まで体中にそれを塗りたくりました。次いで色々何かこそこそ燭台に向かって呟いてから、手足を小刻みにぶるぶると震わせました。すると、体の緩やかに揺れ動くにつれて柔らかい軟毛が段々と生え出し、しっかりした二つの翼までが伸び出て、パンフィレエはいまミミズクになり変わったのです」(呉茂一訳)とある。見事な描写で、アプレイウスは世界最古の魔術小説家と呼ばれるにふさわしい。
 主として水曜と金曜の晩、サバトの時間が近づくと、妖術師たちはいらいら、そわそわし始める。人気の無い物置小屋とか、台所のような場所へ潜り込んで(煙突のある部屋ならどこでも良い)しきりに咒文ととなえながら、香油を全身に塗りたくる。そのうち、急にふわりと身体が浮くように感じる。一説によると、これは毒性の香油が脊柱を刺戟するのだそうである。いずれにせよ、男も女も一種の人工的な失神状態に陥ってしまうので、例の夜宴にしても、結局はこの譫妄状態が作り出す夢だと言えば言えないこともない。近代のある鬼神論者は、例えば霊媒などの神秘の力による浮遊現象によって、この妖術師たちの空中飛行を説明しようと努力した。

歴史中世ヨーロッパの各地で、女たちが夜間にディアーナやゲルマンの女神ホルダと飛行し集うといった異教的民間信仰があった[3]。906年頃にプリュムのレギノンが編纂したカノン(教会法)は、夜に動物に乗ってディアーナとともに旅をしたり、ディアーナに仕えるために召集される「邪悪な女たち」がいるとし、これを根絶すべき迷信として非難している。このテクストは11世紀にヴォルムスのブルヒァルト(en:Burchard of Worms)が編纂した「教令集」に若干改変された形で再録され、後に『司教法令集』と呼ばれて流布した。『司教法令集』は「ディアーナの騎行」は悪魔に吹き込まれた幻覚にすぎず、現実のものではないと断じた。そのためか、こうした女たちへの罰は比較的軽いものであった。その頃はまだ悪魔に仕える魔女という存在の概念は確立していなかったが、ここにみられる女たちの夜の旅や集会は、魔女がホウキや動物にまたがって夜に集うという後世に作られた類型的サバト像に通じるものである。
ロッセル・ホープ・ロビンズなどの学者は、悪魔的なサバトの概念は主として中世末期の14-15世紀に異端審問官や学者らによって作り上げられたものであり、異端審問においてサバトが初めて登場したのは1335年のトゥールーズでの裁判であったとした。しかし、ノーマン・コーンは1330年代のトゥールーズの魔女裁判に関する典拠となったラモト=ランゴン男爵の『フランスにおける異端審問所の歴史』(1829年)は一次史料に依拠しない歴史捏造的な書物であると指摘し、魔女のサバトの概念が14世紀において南フランスでのカタリ派迫害の延長線上に生まれたとする説を論駁している。初期の悪魔学者ヨハンネス・ニーダー(en:Johannes Nider, ca 1380-1438)はサバトのことを知らず、魔女の空中飛行については懐疑的であったが、スイスで子どもを殺す儀式があったことを『蟻塚』(Formicarius, 1435-1438)の中で記している。また、女性を非難する側と擁護する側の議論を描いたマルタン・ル・フラン(en:Martin Le Franc)の長編詩『女性の擁護者』(Le Champion des dames, ca 1440)では当時のサバト観が論じられている。1452年の作者不詳の小冊子『ガザリ派の誤謬』(Errores Gazariorum)にもサバトのことが出てくる(そこではサバトのことはシナゴーグと呼ばれている)。
15世紀には、悪魔崇拝的な魔女たちが徒党を組んでいると考えられるようになり、乱交に耽ったり幼児を食らったりする魔女の秘密集会のことが悪魔学の論書の中で取り沙汰された。こうした魔女の所業の告発は、キリスト教の異端ユダヤ人に対してなされた告発とよく似たものであった。14世紀ごろにはワルドー派やカタリ派の異端者は悪魔崇拝の嫌疑をかけられ、サタンと性交したり秘密の集会(こうした集会はユダヤ人の集会であるシナゴーグの名で呼ばれた)で乱行に及ぶと考えられていた。魔女の集団が実在するという考えが生まれた背景には、こうした異端者やユダヤ人への空想的な偏見があるとする見方がある。上述のような悪魔に仕える魔女の概念が確立した15世紀には、『司教法令集』で女たちの夜の飛行や集会が幻覚とされたのと対照的に、サバトは現実の出来事とされ、火刑に処すべき罪とみなされるようになった。
近世の魔女裁判に大きな影響を与えたと言われている『魔女に与える鉄槌』(1486年)では魔女の集会についてあまり言及されていないが、16-17世紀にはジャン・ボダン(en:Jean Bodin, 1529/30-1596)の『魔女の悪魔憑依』(De la Démonomanie des Sorciers, 1580)やド・ランクル(en:De Lancre, 1553-1631)の『堕天使と悪霊の無節操一覧』(Tableau de L'inconstance des Mauvais Anges et Démons, 1612年)など多くの悪魔学論書が出版され、サバトに対する妄想は拡充されていった。多くの人々がサバトへの参加を告発されその命を失ったのもこの時代である。ペーター・ビンスフェルト(en:Peter Binsfeld)はその著 『蠱業(まじわざ)への注解』(Commentarius de Maleficius, 1622)で魔女を告発する際の重要な証拠として、その人物がサバトに参加したことを挙げている。

サバトについて書き残された記述

イタリア、ミラノの司祭、フランチェスコ・グアッツォ(en:Francesco Maria Guazzo)による著『蠱業要覧』(Compendium Maleficarum)には、彼の想像によると思われる挿画を添えて具体的な記述が記されている。例えば「サバトの出席者は山羊の背中に乗って飛来する。彼らは聖なる十字架を踏みつけにし、悪魔の名のもとに洗礼を受け、服を脱ぎ捨てて悪魔の背中に接吻する。そして背中を合わせるようにして円舞を踊る。」
ハンス・バルドゥンク(en:Hans Baldung, ca 1484-1545)およびド・ランクルによれば、サバトでは人肉が食され、子どもの肉が好まれた。そして人骨も特別な方法で煮込まれた。悪魔は塩とパンと油を嫌うため、それらは禁止されていたと書いた者もいるが、他の証言は美味い料理に言及している。他に、人間の脂肪、とりわけ洗礼を受けていない子どもの脂肪は、魔女の飛行を可能にする軟膏を作るのに使われたと付け加える記述もある。魔女は集会場所まで自分で飛んでいったり、ホウキにまたがって行ったり、悪魔に運んでもらったりするとも信じられた。
悪魔学の論者らの間で一致して広く信じられた点は、サタンが(しばしば山羊またはサテュロスの姿で)サバトに出席していたというものである。また、時には一人の人間が悪魔に憑依されるために自分の身体を差し出し、霊媒の役を果たすこともあったと信じられた。サバトは真夜中に始まり夜明けに終わり、最初は行進からはじまり、宴を続行し、それから黒ミサ、そしてオルギア(躁宴、乱交)で最高潮を迎えるとも信じられた。オルギアでは婚外性交または男性か女性の姿をした悪魔との性交が行われた。幻覚剤と時にはアルコールが使われたという報告も多い。

場所

伝承によると、ほとんどの場合サバトは人里離れた場所で行われ、特に森や山が好まれた。サバトが行われるとされた有名な場所はブルターニュ半島カリニャーノ、ピュイ=ド=ドーム山(フランス)、ブロッケン山、Melibäus、シュヴァルツヴァルトドイツ)、バルド山(ポーランド)、Vaspaku、サベルヌ、Kopastatö(ハンガリー)などがある。 バスク国では、サバト(そこではサバトのことはアケラッレ (en) もしくは山羊の原と呼ばれていた)は人気のない田野において行われると言われていた。

開催日

サバトが行われる日取りに関しては悪魔学の論者らの間でも見解は一致しない。キリスト教ミサが行われる前の日曜の夜に行われると仮定する者もいれば、サタンは聖なる祝祭日には力を弱めるとしてこの見解を否定する者もいた。
よく挙げられる日は2月1日(人によっては2月2日)、5月1日(大サバト、ヴァルプルギスの夜)、8月1日(収穫祭)、11月1日ハロウィン、10月30日の夜から始まる)、復活祭クリスマスであった。挙げられる頻度が比較的少ない日としては聖金曜日1月1日割礼祭)、6月23日聖ヨハネの日)、12月21日聖トマスの日)、聖体祝日などがある。
ベナンダンティやヨーロッパの同様の集団(後述)の証言によると、集会がよく行われる日は「四季の斎日」の週、クリスマスから公現祭までの12日間、または聖霊降臨祭である。
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posted by 真 救世主 at 13:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
傍目には生きてるように普通に見えたってこと?客も見えてるんだよな
Posted by 山岸舞彩 ヤバい画像 at 2013年06月13日 19:12
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